▶ 郊外論(のようなもの)

ホンマタカシといえば「郊外」だ。あの写真集(『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』)は本屋でパラパラと立ち読みしてショックを受けたんだが、写真集を買うという習慣がないので、そのままにしていて、やっぱり見たいなと思ってamazonしたら2万だか3万だかの値段になってた(元はいくらなのか知らないが)。

都市と郊外の関係は、イスラエルにおけるイェルサレムとヨルダン川西岸の関係と同じなんじゃないかという気がする。つまり郊外とは都市が地方にしかけた植民地政策の結果出来上がったトポス(場所)なのではないか。地方は郊外化することによって都市の植民地となり、自律性を失い、都市なしでは生存できない存在に貶められた、ということも出来る。

都市にはハレ(非日常)とケ(日常)が一定のバランスを持って存在しうるが、郊外にはハレはなく一方的にケ(日常)だけが存在する。東京が肥大化することによって、日本の地方は全域が郊外化した、地方は東京なしに存在できなくなってしまった、という言い方もできそうな気がする。

郊外には何かが決定的に欠落している。そしてホンマタカシの写真はその当の「欠落」を「欠落の視点」から切り出した写真なのだと思う。それはおそらく、東京に最適化してしまった人たちにしてみれば「見たくない風景」なのではないか。

▶ 手塚治虫とちばてつや

誤解を畏れずに言えば、手塚治虫って世界をデザインしようとした人だと思う。でも、そういうことを考えると、神様に対するコンプレックスが生まれる。いっぽう、ちばてつやには世界をデザインするような神様は居ない。じゃどういう神様かというと、登場人物たちが生きていけるように暖かい光を供給するような、言うならば、環境みたいな神様だ。

世界はそこにいる登場人物たちが悩んだり、苦しんだり、でも楽しいこともあったり……そういう小さな日常生活の積み重ねで作られていくようなものとしてある。だから未来なんかどうなるかわからない。その未来に神様は関与しない。運命を決めることもない。未来は僕らが少しずつ自分たちで決めていくものとしてある。と僕も思うのだ。

自写像 by QCAM[1995]

自写像 by QCAM[1995]